ゆかばん脳内散歩

カナダ暮らし写真家の日常と思考録。

これからも末永く。ロキオ誕生日会の模様

クリスマス、大晦日、年越し。

みなさんいかがお過ごしだろうか。

 

わたしはもうかれこれ五回目のカナダでのクリスマス、年越しになる。

トロントではこの時期、すれ違う人や店の店員など顔見知りでなくても「Merry Christmas!」と言われる。最近では文化や宗教を考慮して、メリークリスマスと言わずに「Happy Holidays(よい休暇を)!」という人も増えている。こういうのを笑顔で言われるとこちらも顔がほころぶ。白髪のおじいちゃんとおばあちゃんがおそろいのUgly Christmas Sweater(ダサいクリスマスのセーター)を着て歩いているのを見た日にはもう可愛くて悶え狂う。クリスマスシーズン、+カナダだからというのもあるのだろう、とにかく赤いセーター赤い帽子、赤いマフラーに靴下。どこかしらに赤。

待ちゆく人たちはみな、友人や家族へのプレゼントやパーティのためのワインやシャンパンを両手いっぱいに抱えて通り過ぎていく。

わたしはこの時期のトロントが好きだ。

 

 

 

 

さてそんな中。

クリスマスの少し前にロキオは誕生日を迎えた。

わたしは友人たちを巻き込んでサプライズパーティを開いた。

メインのプレゼントはNintendo Switchというゲーム。10数人の友人たちとわたしで少しずつ資金を出し合って買った。

 

 

ロキオとわたしは、テレビゲームを巡って少し苦い思い出がある。

わたしとロキオが付き合いたての頃。今から3年前くらいだろうか。ロキオの某友人がゲーム好きで、その時期のロキオは夜な夜な仕事の後に彼と対戦ゲームをしていた。

 

わたしは子どものころ、両親からテレビゲームを買ってもらえなかった。それが彼らの教育方針で、一度トイザらスで泣きわめいたこともあったけれどそれでもダメだった。

以来ゲーム=人を堕落させるもの、ゲーム=時間の無駄というような価値観が知らないうちに構築されていて、それもあってわたしは暗闇で夜な夜なパソコンに向かうロキオに苛立っていた。

 

その日ロキオは朝の5時までゲームをしていた。わたしは次の日仕事だったのに、音と苛立ちで全く眠れず、ついに朝ぶち切れた。ほとんどキレることのないわたし。

でもあの時は本当に怒っていた。

「This is ridiculous(こんなのありえない)!!」

怒鳴って家を出た。

 

 

それ以来、ロキオはゲームをするのをぱたりとやめた。

結婚する前に日本に来た時しれっとDS?的なもの(厳密には違うらしいがわたしにはわからない)を買っていたが、わたしといる時はしないようにしていた。結婚後、カナダに戻ってきてから2人暮らしを始めた後も、全くしていなかった。

 

 

 

それからさらに数年たった今年冬。

共通の男友達の一人から「クリスマスのサプライズプレゼントはNintendo Switchにしたいんだけど、妻のあなたの了承を得ようと思って」と連絡が来た。そんなものをほしがっていたのか!と単純に驚いた。そんなそぶり、ひとっつも見せないんだもん。

 

わたしはサッとゴーサインを出した。ここ数年でわたしは妻として、女としてだいぶ進化した(これについてはまた別記事で書きたい)ので、むしろ「任天堂ほしいのにわたしに一言も言わないなんて、まだちょっと後ろめたさがあるんだな。可愛いやつ。。。」と思っていた。みんなで協力して彼の願いを叶えてあげることにした。

 

 

着々と準備が進む中、彼の誕生日はいよいよ一週間後。その日わたしたちはバブルティー(日本でいうタピオカミルクティー)屋へ行った。注文した後、ドリンクを待っている時にロキオが横にある箱をじっと見ていた。

箱には「クリスマスに何が欲しい?抽選であなたのほしいものをプレゼント!」という内容の記述があった。自分のEメールアドレスと欲しいものを書いて箱に入れると、抽選でそれが当たるらしい。

 

ロキオはさっと申し込みカードをとり、何やら書き始めた。しかしわたしに見られたくないのか、わたしに背を向けて猛スピードで書いている。そしてサッと箱の中に入れた。

 

何もなかったような顔をしてカウンターでドリンクを受け取るロキオ・・

 

しかしわたしはこの目で見た。

紙上の彼の走り書きの文字。「Nintendo Switch」。

わたしはにやにやを必死にこらえた。・・・だめだ、今笑っては!

 

 

帰り道タピオカを吸い込みながら、わたしは「なんて可愛いんだろう」と彼に思いを馳せていた。吸い込むふりをしてにやにやを抑えた。

わたしに怒られたくないけど、ほしい気持ちはおさえられない・・・!

そんな小学生男子みたいなロキオが愛おしくて仕方ない。

誕生日にそれがもらえるなんて思いもしないロキオは、降ってくる雪の結晶を追いかけて集めるのに夢中になっていた。

 

 

 

 

パーティ当日。

友人たちはノート一冊のサイズくらいで済むものを、わざわざ電子レンジでも入っているんじゃないかというくらい大きな箱にNintendo Switchを入れ、メインのプレゼントにたどり着くまでに一体何分かかるんだというような手の込んだ仕掛けを何重にも作っていた。

たくさんの友人たちに囲まれ、彼らの用意したおばかな仕掛けにその都度がっかりしたり大笑いしたりしながら、ロキオはやっとお目当てのギフトに辿り着いた。

嬉しそうなロキオ。そこにいるみんな、笑顔だった。

 

 

 

 

実はNintendo switchとは別に、わたしは彼にもうひとつのプレゼントを用意していた。

それは友人たちと家族からのメッセージが載ったスクラップブック。

「ロキオを好きな理由3つ」「ロキオの夢への応援メッセージ」「ロキオとの一番の思い出」など、6つの項目を彼の友人たちと彼の家族、わたしの家族に考えて送ってもらい、わたしがノートにひとつひとつレイアウトして作った。

 

 

今年はいろいろな意味で彼にとっては節目の年。

小さいころから苦難の連続だった彼。辛いスタートだった新婚生活。

でもいまやっと、夢に向かうためのスタートラインが見えてきている。

そんな彼を支えている友人たちや家族、そしてわたしからどうしても特別なサプライズをしたかったのだ。

これからどんなに大きな夢を描こうとも、あなたならやれる。そしてそれを信じて応援してくれる仲間や家族がここにはいる。今本当の意味でのスタートラインに立とうとしている彼に、どうしてもそれを伝えたかった。

 

 

 

 

長いパーティが終わり、みんな帰っていった。

ロキオはわたしの目を見て言う。

「僕には素敵な仲間がいる。

そして何より、僕をこんなに思ってくれる奥さんがいる。ありがとう。」

時計は2時を回っている。

スクラップブックに並ぶたくさんのメッセージを、ロキオは一文字一文字指でなぞりながら読んでいた。

 

 

 

 

作戦大成功。

布団に入り、ほっと息をつく。一息ついて、天井を見つめる。

 

彼が彼である以上、わたしにできることなら何でもやりたい。

ふと、強くそう思った。妙に目が冴えていた。

 

 

 

ロキオはすでにいびきをかいている。

わたしはきっと、ずっとこの人と一緒にいるんだろうな。

はっきり、思う。

 

 

 

これからもよろしくね、ロキオ。

 

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恋愛における日本人男性とカナダ人男性の違い③

日本人男性とカナダ人男性の違いシリーズ。

 

 

最後はカナダ人男性の多くは「自分の彼女(嫁)に対する理想を強要しない」こと。

 

 

 

これはおそらく、「日本」と比べてなのでなおさら顕著なのだと思う。

「女性が家庭を守る」という意識がそもそも薄いし、男女関係なくみな平等にという考え方が日本よりもだいぶ浸透しているいるので、「女性だから」という理由で何かを押し付けられたり、無言の圧力をかけられることはない。

 

 

あまりに違うので、わたしがロキオとお付き合いを始めた時は、驚きの連続だった。

小さいころから見てきたものを人は当たり前だと思い込む。その思い込みが彼と付き合いだして一気になくなった。

 

と言うのも、わたしの両親は共働きだったにも関わらず料理はすべて母親がしていた。父は帰ってきてテレビをつけてどかんと座る。ビールも料理も母が運ぶ。そう言えば、洗濯も母がしていた。風呂もたいてい父が一番先に入っていた気がする。わたしはそういう意味では典型的な日本(九州?)の家庭に育ったと思う。

 

 

ロキオと付き合いだして3か月目、アパートを借りて一緒に住み始めた。当時のわたしは料理=女性の仕事という概念がしみついていたので、無意識に食材を買いに行き、帰ったら料理をした。

わたしも働いていたので、その日は疲れていてお味噌汁とあと1品何かおかず(合計2品)を作るのが精一杯だった。

少し申し訳ない気持ちでロキオに出した。

するとロキオは言った。

 

「こんなに美味しそうなごはん作ってくれたの?ありがとう!!」

 

わたしは驚いた。こんなことでそんなに喜んでくれるのかと。

そんなせりふを(少なくともわたしが覚えている限り)父が母に言っているのを聞いたことがない。

 

 

そして彼はぺろりとたいらげた。

「あ~美味しかった!僕がお皿を洗うからね。本当にありがとう!」

 

 

 

こんな場面がいくつもあって、彼と付き合いだしてからわたしの思い込みは一気に覆えされた。

早朝出勤の彼に弁当を作った時も、日本にいたらとても「弁当」としてみなされないような、ごはん+2品みたいな簡素なものだったのだが、ロキオは飛び跳ねて喜んだ。職場で「僕のワイフはこんなものを僕に作ってくれるんだ♪」と毎日自慢していた。

 

料理に限らず家事全般、基本的に対等な役割分担になっている。もちろんどちらかが忙しい時はもう片方が多くやるということはあるけれど、ロキオは料理も洗濯も掃除も食材調達も快く引き受けてくれる。怠けてやりたくないな~という時もあるがそれはわたしもお互い様で、そういう時はふたりでごろごろして、あとで一緒にやったりする。

 

このスタイルが、わたしにとってはとても心地よい。

家事めんどくさ~いとか普通に言う。

だけどロキオは「この女・・・!」」とはならない。

「めんどくさいよね。じゃあ今日は僕がやっとこう」か「わかる~僕もめんどくさい」か「はいはい。じゃあ一緒にやろう」か。だいたいこうなる。

いつも「対等」なのだ。家事は「2人で協力してやるもの」だから。

 

 

加えて日本には「女性の可愛い像」なるものも存在しているように思えていて、そこに反した行動をする女は「だらしない」「彼女にしたくない」「可愛くない」という謎のジャッジを食らう。日本独特の同調圧力は、一時帰国するたびに目の当たりにして正直げんなりする。この間帰った時は街の中にいる20~30代くらいの女性がそろって同じようなファッションとメイクをしていて驚いた。そしてみんな同じくらい細い。

もちろん個性が尊重されるような時代になってかなり変化したなとは思うけれど、やはりそれでもみな無意識的に誰かに決められた「可愛い女」になろうとしている感じは否めない。

 

 

カナダではそもそも何が可愛くてなにが美しいのかという基準がないので(多国籍文化なので統一しようがない)、とにかくその人がその人らしく生きてたらOK!という感じだ。二の腕が太くてもタンクトップ一枚で歩けばいいし、すっぴんでBarに行ったって誰も気にしない。

 

ロキオもわたしに美や可愛さや女性らしさを強要したりはしない。

太っても罵倒されない。

「またぷにぷにがついたね~」と言って笑いながらわたしの腹をつまんでおわり。

わたしがダイエットをすることや美を磨くことに関心があってそれが楽しければわたしが能動的にやればいいだけだし、それらをやらなくてもわたしはわたし!っと思うのならそれでいい。

 

日本にいる時に感じていた、男性の「言わないけど、彼女にはこうであってほしい」みたいな、なんというのか、女性の理想像に自分の彼女を当てはめて常にジャッジされている感じは、彼との関係において完全に無い。

 

 

彼と生活しだして、いろんなことがシンプルになった。

彼から強要される理想像がないから、それに当てはまろうとして苦しむ必要もない。

自分で自分の理想を決めてそれに向かって楽しんでやればいいだけなのだ。

 

 

(わたしと彼の場合はこんな感じだけれど、たまにカナディアン男性の中に「日本人女性は従順で何でもやってくれるから」という勝手な思い込みを持って日本人女性と付き合おうとするやつらもいる。そういう輩はたいていあなたのことを「人」としてではなく「日本人の女」としか見ていないので、万が一出会ったらサッとスルーしてほしい。逆に日本人でも女性を対等に扱える素晴らしい男性は山ほどいるのだ。だからほんとうに、一概には言えない。)

 

 

 

少なくともロキオとわたしや、カナダで円満に関係を営んでいるわたしの周りのカップルたちの共通点は「理想像の押し付け合い」をしていないことだ。

 

 

わたしが彼と一緒に暮らす中での大きな気づきの一つ。

彼女、嫁である前にわたしたちは一人の人間であること。

そして理想を押し付けあって窮屈になるのではなくて、2人で足りないところを補い合いながらバランスをとること。

この大切さを教わった。

 

 

***

日本での当たり前は海外に行くと全然当たり前じゃなかったりして、わたしも未だに多くの発見がある。

けれど日本にいてそれに気づかなければ、ずっと苦しい思い込みの中で生き続けてしまうこともある。誰かの期待に応えようとして苦しむなんてもったいない。

特に今のわたしが思うのは「日本の女性たち、がんばりすぎ。もっと楽していいよ~」ということ。誰かが決めた理想にあてはまらなくていい(それがたとえあなたの彼氏でも!)怠けものでもいいし太っててもいいし、ネガティブでもいい。本当は自分はどうなりたいか?を自分で考えて、そこに一歩一歩進んでいけばいいと思う。

***

 

熱くなってしまいました。

 

恋愛における日本人男性とカナダ人男性の違い③

「女性に理想像を強要しないこと」。

 

でも結論、日本人カナダ人にかかわらず

「人に理想を押し付けない」。

これがいちばん大事。

 

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別れに正当な理由はいらない。メリットを手放して次へ進むだけ!

 

最近、こんなせりふを聞いた。

「長く付き合っている彼氏がいて、でも結婚は考えられないんです。でも別れる理由がなくて・・・。」

 

 

 

これを聞いたわたしは衝撃を受けた。

 

「別れる理由がなくて?!」

「逆に新しい!!」

 

面白いからちょっと詳しく聞かせてくれ!と思った(いつもの観察癖)。

ほんとうに衝撃だった。

 

 

 

 

人は、恋人と別れる理由がないと別れてはいけないのだろうか。

そもそもじゃあ、別れを切り出してもお互い納得がいくくらいの妥当な理由ってなんだろう。

「彼が浮気をした」

「多額の借金があった」

「価値観があきらかに違いすぎる」

「連れ子がいたのを黙っていた」

 

こんなところだろうか。

ちなみに、こんなことが起こっても乗り越えて仲良くやってるカップルは山のようにいる。

 

結局、別れるのに理由はいらない。一緒にい続けるかどうかの基準はただ一つ。

「わたしはこの人と一緒にいて幸せを感じられているか?」

 

もしYesと断言できないのなら、もやもやしたままずるずる関係を続けるのはおすすめしない。

 

 

 

 

 

「別れる理由がないから別れられない」といって悶々とするその理由。

これはもうはっきり言ってしまおう。

 

それは、別れないことにメリットがあるから。

そのメリットを自分で自覚し、手放さない限り別れられない。

 

 

そして多くの場合、そのメリットは大したことない。

「寂しさを感じなくて済む」

「誰かと付き合っている、という安心感や世間体」

「妥当な理由もなくフったことで罪悪感を感じなくて済む」

大概こんなもんだ。

 

 

 

わたしは思う。

「別れ」が見え始めている時点で、つまり「一緒にいる理由」が揺らいでいる時点で、意識的でも無意識的でも、本当はこの人じゃないってわかってるんじゃんないかって。

 

だって

「別れる理由がない」

って、今たいした理由が見つかってないけど現在進行形で密かに探してるってことじゃない?

大好きな人と一緒にいて幸せな時、そんなことは考えない。

 

 

パートナーと一緒にいて、毎日一緒にいられて幸せと思えない。別れる理由ばかり探してしまう、という人へ。

さっと握りしめているメリットを手放して、真剣に彼との関係を今後どうするか考えよう。

 

 

「自分は何が怖い?別れると何を失うって思っている?」

 

まずはこの答えを見つけること。

そして「わたしは大丈夫」って思えた時、かならず次に進める。

心配ない。彼と別れたって死なない。

 

また次に新しい、素晴らしい出会いが待っているだけだ。

 

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夫の恋愛論。「今できることをやるだけ」

先日友人が自宅に遊びに来て、夜3人でビールを飲んでいた時のこと。

パートナーシップの育み方の話になり、ロキオが熱く語り始めた。

 

第三者(+お酒)がいる時、彼はときたま熱い話をする。ふたりでいる時はあまり聞けないような「ロキオの〇〇論」が聞けるチャンスなのだ。わたしは身を乗り出した。

 

 

友人は過去の苦い経験から、

「相手が心を開いてくれるかわからない状態で、自分をさらけ出すのが怖い」

「何か問題が起きた時に自分が一生懸命それに向き合おうとしても、相手も同じように真摯に向き合ってくれなかったらどうしよう。それによって積み上げてきた関係が崩れ去ってしまうのが怖い」

と話してくれた。

 

 

 

ロキオは言った。

「誰かを愛するということは、相手の感情や意見を理解しようと努めること

相手が何かに迷っている時は気持ちを聞いてあげること。

自分の道を切り開こうとしている時は、それが何であれ肯定し、全力でサポートすることだ。」

 

 

ロキオはさらに続ける。

過去は変えられない。それは今自分が何をするのかには関係がない。

未来も同じ。今考えてたらればの話をしたって、数か月後数年後の自分がどうなっているかなんて誰にもわからない。

一番大切なのは、今この瞬間、自分にできることをただやること。それだけだ。

 

 

 

 

ロキオはいつになく凛々しい顔をしていた。

「僕は今までお付き合いをしたどんな女性に対しても、自分がその時できるベストを尽くし、彼女を大切にしようと努めた。彼女の家族に差別をされたり、別の子には浮気をされて傷ついたこともあった。でも僕は自分の正しいと思うことをやり続けた。」

 

僕が今思うことは、相手の対応がたとえ自分の望んでいたものでなかったとしても、自分がその時ベストだと思うことをただやる以外に最善はないということ。

そうすることでしか、自分が本当に欲しいものはみつからない。」

 

 

 

 

 

わたしは胸が熱くなった。

彼の今までのわたしに対する言葉や行動の原点を知れた気がした。

そして、この人と一緒にいられて心底幸せだと思った。

 

 

 

 

 

相手がどう反応するか?を待っていてはいけない。

まずは自分から「この人のために自分は何ができるか?」を考えて行動すること。

相手に100%でぶつかっていけば、傷つくこともある。

思い通りにいかないこともたくさんある。

それでも与えつづけること。自分にできることを考えてやりぬくこと。

そうすることでしか、本当に自分の求めているものにはたどり着けない。

 

 

 

 

わたしはこの人のことを一生大切にしようと心に誓った。

そんな夜の話。

 

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ロキオのお気に入りジブリ映画

今、無性に「耳をすませば」を観たい。

なのでやたらOlivia Newton Jhonの「Take Me Home, Country Road」を聴いている。

年を経るごとに、あの映画が沁みてくるのはなぜなのだろう。

 

主人公はしずくちゃんなんだけど、よくよくみると登場人物全員にドラマがある。年をとると、物語の大筋だけではない細かい描写やそれぞれの人物の思いなんかを汲み取れるようになってきて、子どもの時に見ていたのとは全く違う発見があるものだ。

どこに注目して観るのかも、自分のタイミングや成長具合でかなり変わったりする。

小さいころのわたしは単に「恋愛ドラマ」として観ていたのに、大学生のわたしはしずくの本を書くという挑戦と葛藤に注目して観ていたり。杉村(しずくのことを好きな野球部の少年)の気持ちを察してくぅ~!っとなったり。

 

もう何十回も観ているのに、ふとした時にまた観たくなるような映画は名作だと思う。

わたしとわたしの弟は、だいたい夏休みに「時をかける少女」か「耳をすませば」をみるというのが恒例になっていた。夏にみる、というのもポイント。

 

今になってもう一回観たい気持ちになっているということは、また新たに発見があるのかもしれないな。

週末ゆっくりみることにする。

 

 

 

 

ちなみに、ロキオもジブリが大好きだ。

でも「耳をすませば」にはあまり興味がない。

 

彼のお気に入りは「天空の城ラピュタ」。

日本で三鷹の森美術館に行ったときの彼の興奮具合はすごかった。ロボット兵のでかいオルゴールを買っていた。

他人のお気に入りのジブリ作品を聞くのがわたしはけっこう好きだ。その人の嗜好が見える。

 

わたしは「千と千尋の神隠し」「紅の豚」「魔女の宅急便」あたりが好きだが、ロキオは「天空の城ラピュタ」「もののけ姫」「ハウルの動く城」が気に入っている。

前になぜラピュタが好きなのかと聞いたところ、「シータが空から降ってきて、彼女が誰なのかを冒険を通じて明らかにしてくストーリー展開と、最後すべてが終わった後に城が姿を現した時の感動」と言っていた。「そこなんだ!」と思った。

夫婦でも全然違う。

 

わたしの場合は映画の舞台が自分の好きな世界観かどうかというのがわりと重要で、「紅の豚」や「魔女の宅急便」はまさに。あの世界に住みたいってくらい。紅の豚に関しては絵の描写に相まってひとつひとつの言葉がもう美しい。「千と千尋の神隠し」はわたしがちょうど千尋と同じ年の時に映画が上映されていて、好きが過ぎて3回も映画館へ観に行ったのを覚えている。あの、人間と人間でないものの入り混じる混沌とした世界が好きなのだ。だれも正しくないし、間違ってもいないし、敵でも味方でもない感じ。現実世界と少し似ている。使われている音楽も好き。

 

 

 

一方ロキオはというと、

物語のストーリー性をかなり重視している。このキャラクターにはこうこうこういう過去があって、だから今悪と戦うことでそれを償おうとしているんだ、とか、裏側のストーリーと表側のストーリーがつながる意外性とか。そういうの好きだなーと観察してて思う。

 

 

ジブリに限ったことではないが、わたしは戦いが基本的に苦手なので戦い要素の強いものをあまり観ない。

特にアクション映画などの、正義と悪がドンパチやる!みたいなものはほぼ観ない。

前に彼の希望でマーブル系のアクション映画を一緒に観に行った。ほぼ戦いで、わたしは目と耳が疲れて、意味もよくわからずおわった。

彼は「これはギリシャ神話に基づいていて、主人公の〇〇にはこんな過去があって、今戦っているこいつはかつて…」とか色々説明されたけれど、やはりよく良さがわからず終わった。

 

わたしは観るとすれば大体ミュージカルかヒューマンドラマ(人があまり死なないやつ)で、特にミュージカルだとストーリーが単純でも衣装や背景の美しさや歌のエネルギーで大体満足するので、何十回も同じものを観るのもなんら苦ではない。よく夫に、これもう何回もみたじゃん!と言われるけど、だって好きなんだもん!で会話が終わる。

 

 

 

全くなんの一貫性もないが、ジブリで思い出した。

「千と千尋の神隠し」に出てくるあいつ。カオナシ。

あれの英語名をご存知だろうか。

 

 

「No Face」

 

 

なんのひねりもない。直訳も直訳。

 

 

ロキオはすっぴん状態のわたしのことを「ノーフェイス」と勝手に呼んでいる。

朝お化粧をしようとすると、「お面をくっつけにいくの?」とか「イエス、フェイス!」とか言われる。

わたしは生まれつき眉毛が薄くて、すっぴんだとまろまゆになる。プラス、寝起きだと目がしょぼしょぼしてうっすらしか開いていないので、よけいカオナシに見えるとのこと(本人談)。

 

彼は一時期わたしがあげた「ジブリベスト」のアルバム2枚をエンドレスで聴いていた。日本語がさっぱりわからないのに、なぜだかずっと聴いていた。

彼的ジブリ曲ベストは、「世界の約束(ハウルの動く城)」、「君をのせて(天空の城ラピュタ)」。このふたつが特に好きだ。この間までは携帯の着信音がナウシカのrequiem(ランランララランランラン♪)で、鳴るたびに周囲の人を怖がらせていたのでやめるよう言った。今は風立ちぬの「旅路」という曲を採用している。

 

 

日本人でよかったなぁと思うことのひとつに、ジブリを含めすばらしいアニメーションを100パーセント、ニュアンスも込みで理解できることがある。英語字幕をみていると、わりと頻繁に「うーん。なんか違うんだよなあ」という英訳がされていて(英語にそういう表現自体がない場合もあるのでしょうがない)、残念に思う。

 

今のところ日本語は2歳児レベルのロキオだが、最近「日本語勉強キット」なるものを本屋で手に入れていた。勉強熱がついにきたらしい。

彼が字幕なしでラピュタを理解できる日は来るのか。

 

 

ほんとうは違うことを書くつもりだったのに、ジブリネタで終わってしまった。。。

 

今週末はしずくとせいじに心を浄化してもらい、気を取りなおして来週のロキオ・バースディパーティに備えようと思う。

 

 

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