ロキオ観察日記

カナダ人夫との国際結婚ライフ

夫の恋愛論。「今できることをやるだけ」

先日友人が自宅に遊びに来て、夜3人でビールを飲んでいた時のこと。

パートナーシップの育み方の話になり、ロキオが熱く語り始めた。

 

第三者(+お酒)がいる時、彼はときたま熱い話をする。ふたりでいる時はあまり聞けないような「ロキオの〇〇論」が聞けるチャンスなのだ。わたしは身を乗り出した。

 

 

友人は過去の苦い経験から、

「相手が心を開いてくれるかわからない状態で、自分をさらけ出すのが怖い」

「何か問題が起きた時に自分が一生懸命それに向き合おうとしても、相手も同じように真摯に向き合ってくれなかったらどうしよう。それによって積み上げてきた関係が崩れ去ってしまうのが怖い」

と話してくれた。

 

 

 

ロキオは言った。

「誰かを愛するということは、相手の感情や意見を理解しようと努めること

相手が何かに迷っている時は気持ちを聞いてあげること。

自分の道を切り開こうとしている時は、それが何であれ肯定し、全力でサポートすることだ。」

 

 

ロキオはさらに続ける。

過去は変えられない。それは今自分が何をするのかには関係がない。

未来も同じ。今考えてたらればの話をしたって、数か月後数年後の自分がどうなっているかなんて誰にもわからない。

一番大切なのは、今この瞬間、自分にできることをただやること。それだけだ。

 

 

 

 

ロキオはいつになく凛々しい顔をしていた。

「僕は今までお付き合いをしたどんな女性に対しても、自分がその時できるベストを尽くし、彼女を大切にしようと努めた。彼女の家族に差別をされたり、別の子には浮気をされて傷ついたこともあった。でも僕は自分の正しいと思うことをやり続けた。」

 

僕が今思うことは、相手の対応がたとえ自分の望んでいたものでなかったとしても、自分がその時ベストだと思うことをただやる以外に最善はないということ。

そうすることでしか、自分が本当に欲しいものはみつからない。」

 

 

 

 

 

わたしは胸が熱くなった。

彼の今までのわたしに対する言葉や行動の原点を知れた気がした。

そして、この人と一緒にいられて心底幸せだと思った。

 

 

 

 

 

相手がどう反応するか?を待っていてはいけない。

まずは自分から「この人のために自分は何ができるか?」を考えて行動すること。

相手に100%でぶつかっていけば、傷つくこともある。

思い通りにいかないこともたくさんある。

それでも与えつづけること。自分にできることを考えてやりぬくこと。

そうすることでしか、本当に自分の求めているものにはたどり着けない。

 

 

 

 

わたしはこの人のことを一生大切にしようと心に誓った。

そんな夜の話。

 

 

 

 

 

ロキオのお気に入りジブリ映画

今、無性に「耳をすませば」を観たい。

なのでやたらOlivia Newton Jhonの「Take Me Home, Country Road」を聴いている。

年を経るごとに、あの映画が沁みてくるのはなぜなのだろう。

 

主人公はしずくちゃんなんだけど、よくよくみると登場人物全員にドラマがある。年をとると、物語の大筋だけではない細かい描写やそれぞれの人物の思いなんかを汲み取れるようになってきて、子どもの時に見ていたのとは全く違う発見があるものだ。

どこに注目して観るのかも、自分のタイミングや成長具合でかなり変わったりする。

小さいころのわたしは単に「恋愛ドラマ」として観ていたのに、大学生のわたしはしずくの本を書くという挑戦と葛藤に注目して観ていたり。杉村(しずくのことを好きな野球部の少年)の気持ちを察してくぅ~!っとなったり。

 

もう何十回も観ているのに、ふとした時にまた観たくなるような映画は名作だと思う。

わたしとわたしの弟は、だいたい夏休みに「時をかける少女」か「耳をすませば」をみるというのが恒例になっていた。夏にみる、というのもポイント。

 

今になってもう一回観たい気持ちになっているということは、また新たに発見があるのかもしれないな。

週末ゆっくりみることにする。

 

 

 

 

ちなみに、ロキオもジブリが大好きだ。

でも「耳をすませば」にはあまり興味がない。

 

彼のお気に入りは「天空の城ラピュタ」。

日本で三鷹の森美術館に行ったときの彼の興奮具合はすごかった。ロボット兵のでかいオルゴールを買っていた。

他人のお気に入りのジブリ作品を聞くのがわたしはけっこう好きだ。その人の嗜好が見える。

 

わたしは「千と千尋の神隠し」「紅の豚」「魔女の宅急便」あたりが好きだが、ロキオは「天空の城ラピュタ」「もののけ姫」「ハウルの動く城」が気に入っている。

前になぜラピュタが好きなのかと聞いたところ、「シータが空から降ってきて、彼女が誰なのかを冒険を通じて明らかにしてくストーリー展開と、最後すべてが終わった後に城が姿を現した時の感動」と言っていた。「そこなんだ!」と思った。

夫婦でも全然違う。

 

わたしの場合は映画の舞台が自分の好きな世界観かどうかというのがわりと重要で、「紅の豚」や「魔女の宅急便」はまさに。あの世界に住みたいってくらい。紅の豚に関しては絵の描写に相まってひとつひとつの言葉がもう美しい。「千と千尋の神隠し」はわたしがちょうど千尋と同じ年の時に映画が上映されていて、好きが過ぎて3回も映画館へ観に行ったのを覚えている。あの、人間と人間でないものの入り混じる混沌とした世界が好きなのだ。だれも正しくないし、間違ってもいないし、敵でも味方でもない感じ。現実世界と少し似ている。使われている音楽も好き。

 

 

 

一方ロキオはというと、

物語のストーリー性をかなり重視している。このキャラクターにはこうこうこういう過去があって、だから今悪と戦うことでそれを償おうとしているんだ、とか、裏側のストーリーと表側のストーリーがつながる意外性とか。そういうの好きだなーと観察してて思う。

 

 

ジブリに限ったことではないが、わたしは戦いが基本的に苦手なので戦い要素の強いものをあまり観ない。

特にアクション映画などの、正義と悪がドンパチやる!みたいなものはほぼ観ない。

前に彼の希望でマーブル系のアクション映画を一緒に観に行った。ほぼ戦いで、わたしは目と耳が疲れて、意味もよくわからずおわった。

彼は「これはギリシャ神話に基づいていて、主人公の〇〇にはこんな過去があって、今戦っているこいつはかつて…」とか色々説明されたけれど、やはりよく良さがわからず終わった。

 

わたしは観るとすれば大体ミュージカルかヒューマンドラマ(人があまり死なないやつ)で、特にミュージカルだとストーリーが単純でも衣装や背景の美しさや歌のエネルギーで大体満足するので、何十回も同じものを観るのもなんら苦ではない。よく夫に、これもう何回もみたじゃん!と言われるけど、だって好きなんだもん!で会話が終わる。

 

 

 

全くなんの一貫性もないが、ジブリで思い出した。

「千と千尋の神隠し」に出てくるあいつ。カオナシ。

あれの英語名をご存知だろうか。

 

 

「No Face」

 

 

なんのひねりもない。直訳も直訳。

 

 

ロキオはすっぴん状態のわたしのことを「ノーフェイス」と勝手に呼んでいる。

朝お化粧をしようとすると、「お面をくっつけにいくの?」とか「イエス、フェイス!」とか言われる。

わたしは生まれつき眉毛が薄くて、すっぴんだとまろまゆになる。プラス、寝起きだと目がしょぼしょぼしてうっすらしか開いていないので、よけいカオナシに見えるとのこと(本人談)。

 

彼は一時期わたしがあげた「ジブリベスト」のアルバム2枚をエンドレスで聴いていた。日本語がさっぱりわからないのに、なぜだかずっと聴いていた。

彼的ジブリ曲ベストは、「世界の約束(ハウルの動く城)」、「君をのせて(天空の城ラピュタ)」。このふたつが特に好きだ。この間までは携帯の着信音がナウシカのrequiem(ランランララランランラン♪)で、鳴るたびに周囲の人を怖がらせていたのでやめるよう言った。今は風立ちぬの「旅路」という曲を採用している。

 

 

日本人でよかったなぁと思うことのひとつに、ジブリを含めすばらしいアニメーションを100パーセント、ニュアンスも込みで理解できることがある。英語字幕をみていると、わりと頻繁に「うーん。なんか違うんだよなあ」という英訳がされていて(英語にそういう表現自体がない場合もあるのでしょうがない)、残念に思う。

 

今のところ日本語は2歳児レベルのロキオだが、最近「日本語勉強キット」なるものを本屋で手に入れていた。勉強熱がついにきたらしい。

彼が字幕なしでラピュタを理解できる日は来るのか。

 

 

ほんとうは違うことを書くつもりだったのに、ジブリネタで終わってしまった。。。

 

今週末はしずくとせいじに心を浄化してもらい、気を取りなおして来週のロキオ・バースディパーティに備えようと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

恋愛における日本人男性とカナダ人男性の違い②

わたしが思う、お付き合いするうえでの日本人男性とカナダ人男性の違い。

今日は3つのうちの2つ目について書いてみよう。

 

 

2つ目は、「カップルはセット」という考え方。

付き合いだしてわりとすぐに、彼はあらゆる場所へわたしを連れて行き、彼の同僚や友人たちにわたしを紹介してくれた。

それは友人宅のホームパーティであったり、彼の働く会社が主催しているクリスマスパーティであったり、様々だけれど、とにかく色々連れていかれる。

そしてもちろん「彼女は僕の恋人です(妻です)」とそこで会う人皆に紹介してくれる。

 

最初は彼がただ単に連れていきたがるタイプの男性なのかもしれない、と思っていた。けれど実際にそういう集まりに行ってみて感じることは、そもそもあらゆる場面において「カップルはセット」という考え方がこの国にはあるのかもしれない、ということだった。彼もわたしをパートナーとして紹介するけれど、反対にいろんな人から彼らのパートナーを紹介される機会も多く、それがきっかけで人脈が広がる。

彼には彼の所属するコミュニティ(家族、職場、友人等)があり、そこに自分のパートナーを連れていくことはごく当たり前のことのようだ。

 

実際、先日仕事で結婚式の会場におもむいた際も、参列するゲストはとにかくカップル、カップル、カップル・・・。独身か、なんらかの事情で相手が来れない場合を除いてはみなカップルで来ていた印象。

お相手がいる場合、「結婚式はカップルで参加」が一般的の様子。そのため全員が新郎新婦と知り合いなわけではなく、「結婚おめでとう!I'm 〇〇. Glad to see you.」とお互いを紹介しあう場面を何度か見た。

 

 

一方日本では結婚している場合を除き、基本的にお互いのコミュニティにわざわざ顔を出すという機会が少ないように感じる。特に男性の職場の飲み会にその彼女が毎回参加する、という光景はまれである。自分の所属するコミュニティにパートナーの存在を知られること自体を嫌う人もいる。2人でいるときと外での自分は別もの、みたいなところがちょっとあるのかな。

 

 

ロキオはいつもわたしを連れていくので、もはや彼の友人=わたしの友人だし、職場の人もわりとみんな知っている。

 

「カップルはセット」。

 

 

彼がわたしをいろんな場所へ連れていき、紹介してくれることのメリット。

その1つは人との繫がりが増えること。新しい出会いによって自分の可能性が広がること。

自分一人で行動している時には会えなかったであろう分野の人たちとの繋がりが、彼と行った先でできたりするのだ。そういう人たちの話を聞くと、世の中いろんな人がいるもんだ、と勉強になる。

わたしはいろんな人たちと繋がりを持つことに喜びを感じる人間なので、こういう機会が増えるのはほんとうにありがたいのだ。

 

 

もう1つのいい点は、パートナーののいろいろな顔を知れること。

家にいる時のロキオは氷の上に寝そべるアザラシのようにだらーんとしていたり、猫(にしてはでかい)のようにミャーンと甘えてみたり、それはそれで素の彼なので面白いんだけれど、やはり外に出た時は違う顔をどんどん見せてくれる。それを見るのがわたしは楽しい。

例えば、結婚したての頃よく「仕事を辞めて彼女と日本へ行くのは大きな決断だったと思うけど、なにが決め手だったの?」という趣旨の質問をよくされていて、その彼の回答を隣で聞くのが面白かったりした。彼は変に照れ屋なところがあるので、そういうことをわたしに直接は言わない。結婚して2年半。未だに彼の答えに「そんなこと考えてたの?!」と思うことは多々ある。

他にも、深い話になった時に彼の人生観や密かに抱いている野望の話を聞けたり、誰かの意見に対する彼のコメントで彼のことをいっそう知るきっかけになったり。

他の人との関わり合いの中で見える彼の性格や思考を知るのが楽しかったりする。

 

 

あともう1つ付け加えるのなら、

パートナーは自分の一部である、という感覚が養われることだろうか。共通のコミュニティが増えるということは、2人で共有できることが増えるということ。2人でする経験、過ごす時間が増えるということ。わたしたちは個人として尊重させるべき存在だけれど、同時にお互いの一部でもある。その意識が、少なくともわたしは強まったように感じる。

 

 

補足(もちろん、互いのコミュニティは別!と割り切った方が互いにとってプラスなのであれば、そうすべき。わたしとロキオの場合、お互い人と繋がるのが好きで、定期的に新しい出会いを経験してそれを夫婦間でシェアすることが喜びだと分かっているからこうしてうまく回っている。自分たちに合うスタイルを自分たちで築いていってほしい。)

 

 

日本人男性とカナダ人男性の違い2つ目。

「カップルはセット」という考え方。

電話の理由

昼過ぎに、仕事へ行くと言って家を出た夫。

 

家を出てすぐに電話が鳴った。

 

 

わたし:

もしもし?どうした?

 

夫:

今日は風が強いから傘を持って行かずにフード付きのパーカーを着て行ってね。雨はあんまり降ってないから大丈夫だよ。暖かくして外出するんだよ。

 

わたし:

おっけ!

 

 

10分後、また電話が鳴った。

 

夫:

今バスに乗ろうとしたらね、プレスト(Suicaのようなもの)にお金が入ってなくて乗れなかったの!ガガーーン!

 

わたし:

あらら。

 

 

 

さらに10分後。電話が鳴る。

 

わたし:今度はどうしたの?

 

夫:うおおおおおおお 

 

わたし:何事?!

 

夫:MUJI(無印良品)が二階建てになってる!でかいよ〜!!うぉー!

(その後なにやらぶつぶつ言ってるが聞き取れない)

 

わたし:     ・・・・。

 

夫:それだけ♩じゃね〜!

 

 

 

 

・・・。

 

 

 

 

これは今に始まったことではない。

これ言いたい→速攻電話する、という彼の習慣は付き合い始めからずっとそう。

 

彼はわたしの寒がりとおっちょこちょいを分かっていて、事前に天候を教えてくれる。わたしは天気予報を確認する習慣があまりないのでこれはわりと助かる。

 

それから、何かに感動したらわたしにすぐ言いたいらしい。さっき脇道にアライグマがいたんだよ!とかで電話してくる。高校時代の友だちがお店に来てくれたんだ!とか。なんだか小学生の男の子を育てているみたい。ほっこりする。

 

 

 

わたしはもう慣れている。

慣れているけど、ひとつだけ気をつけていることは、今忙しいから、と冷たくあしらわないこと。よかったね、と言ってあげること。一緒に共感してあげること。

そしたらまた、懲りずにわたしに報告し続けてくれるだろうから。

 

 

 

今日もお仕事がんばってね。

 

 

 

 

恋愛における日本人男性とカナダ人男性の違い①

よく聞かれる質問の中で、

「お付き合いするうえで、日本人男性と外国人(カナダ人)男性は何が違いますか?」

というものがある。今日から3回にわたってこの質問に答えていこうと思う。

 

 

はじめに断っておくが、日本人だからこう、外国人だからこう!という絶対的なものはないという前提で話を進める。

日本人で女性をエスコートするのが得意な人はたくさんいるし、北米人でもシャイで無口な人はいる。

カナダ人だからこう、もない。

そもそもこの多民族国家において「カナダ人って何?」ということなのだ。人種的なバックグラウンドや家庭環境、その人の性格など、様々な要因によって「カナダ人」の定義も大いに変わってくる。

トロントに関して言うと、そもそもみんな自分が何者なのかを人種やジェンダー等で無理やり決定づけようという態度がない。みんな「僕は僕、わたしはわたし」。

そこがこの街のいいところでもある。

 

 

 ただ、傾向や文化的な違いは確かにある。

今回はロキオと付き合いだしてから気づいた日本人男性との違いの中でも、わたしが現在進行形でポジティブにとらえている3点の違いとその理由について紹介したい。

今日はそのうちの1つを書いてみようと思う。

 

 

 

それは、愛情表現がとにかく豊かであること。

 

これは洋画を見れば察しがつくだろうか。

喜怒哀楽どんな感情にしても、こちらの人たちは日本人に比べてかなり「出す」文化だなあという印象だが、「愛情」に関してはさらにそれを感じる。

それは恋人に限らず、家族や友人に対しても。

その文化に輪をかけてロキオは子どものように毎日欠かさず愛情表現をしてくれるので、付き合い当初は正直多少戸惑ったものの、今はこちらの方が自分に合うなと感じている。

 

具体的にどんな愛情表現かというと、例えばわたしと彼の場合、1日最低でも20回は「I love you」と言われる。

1日の中で一緒にいる時間がたとえ3~4時間であっても。

街を歩いているとカップルなら手をつないだり腕を組んだり、キスでさえ普通の光景だ。南米のいくつかの国やイタリアなど、あいさつ代わりにほっぺにキスする人たちもちらほらみかける。

ロキオと歩いている時も、彼の感情が溢れたタイミングでなのか、頭やほっぺに軽いキスをされたり、電車やバスを待っている時にハグ&すりすり(ひげでちょっと痛い)をされたりする。

 

この文化における愛情表現は「見せつけるため」にするものではなくて、ただ相手を愛おしいと感じる瞬間にそれを表現する、シンプルにただそれだけ、という印象。

対しわたしが日本にいて感じるのは、カップルへの目線がやや冷たくて嘲笑的だなということ。色恋や性のにおいを少しでも感じさせるものははしたないというような。

奥ゆかしさを美とする独特の文化故、というところもあるから、もちろんどちらが良い悪いの話ではないんだけれど。

 

ただ、カナダ人と結婚する日本人女性が多い理由、そして彼女たちが生きいきする理由はここもあるのかな、と思っている。

愛情をコンスタントに伝えられると、女性は「自分は愛される価値のある女なんだ」と信じられるようになる。母性がはたらいて「彼のために何ができるかな?」と考える余裕ができる。結果、彼からもっと愛情をもらえる、といういいサイクルが生まれる。

旦那が帰ってきて「今日の飯は?」と突然言われるより「今日も愛してるよ」と言われる方が女性は嬉しいのだ。お花と一緒で、綺麗な水を毎日与えれば女性ははりきる。美しく咲こうと努める。ある意味単純なのだろうか。

わたし自身、愛情表現を毎日してもらえることで「愛されている」という安心感が生まれ、その前提が常にあるので、仕事や自分のやりたいことなど他のことに全力投球できるようになった、プラス夫への感謝の気持ちが増幅し、それを彼に還元したいと思うようになった。

 

 

そしてもう一つ思うのが、公の場とプライベートの空間との線引きが日本ほど明確でないので(どこにいても愛情表現が許される環境にいるので)、精神的に安定する。

 

例えば日本で夫の会社の同僚との飲み会に参加したとする。ほんとうは2人でいる時のように腕を組んだり寄り掛かったりしたい。でも同僚たちの前でべたべたするのは失礼だから、その場はやりすごして我慢する。

夜12時やっと2次会も終わって帰宅。

 

女(やった!やっと彼とラブラブできる!)

 「やっと〇〇くんと2人きりになれた♡(構って感全開で寄っていく)」

男「ごめん、疲れた。もう寝るわ」

女「(ガーーーーーーン)なにそれ!怒」

 

こういうのって、日本では無数にあると思う。経験ある人多いんじゃないかな。

 

こういうことが、あまりわたしと彼の間では起きない。周りの友人カップルたちをみてもそうだが、基本的に誰といようと愛情表現はする。パーティでは隣の席に座るし、男性が腰に手を回したり女性が男性に寄り掛かったりするのはもはや普通である。

わたしはおっちょこちょいなので、そういう場で何かやらかすこともあるけれど、そういう時も「おい、もうちゃんとしてくれよ!」とはならない。

「もう、ほんとにおばかさんだね。チュッ(頭にキス)」こうなる。

 

なので、欲求不満でウキャー!となることはほぼない。友人がしているのをみてもただほっこりするだけ。

こういう風に「自分たちの自然な状態」を周りも承認し、わたしたちも周りのその状態を承認するというのがわたしは個人的にとても合っているように思う。

こういう状態が常に続いていると、わざわざ彼との刺激的なイベントを用意しなくても「自分は愛されている」という実感をいつも保っていられるのだ。

 

 

 

結論。

大きな違いの1つは、愛情表現の仕方、頻度、度合い。

わたしの思ういい点は、愛されているという安心感を得られたり、彼への自然な感謝の気持ちが湧いてきたりすること。そして恋愛が安定すると相乗効果で仕事やキャリアなど別の場面でもモチベーションを保てること。

そしてわたしにとって愛情表現をすることは「自然といつもしていたいこと」なので、それを周りがよしとしてくれる環境はとても居心地がいい、というより、より自分が素でいられるので単純に楽しい。

 

 

 

次回パート2もお楽しみに。